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生徒さんから紡ぎだされる音

感動しかない

レッスンで生徒さんが弾きます。
音ひとつひとつには「いのち」があります。
その「いのちの音」を受けとって弾きます。

はっ、としました。

土曜日のお昼の生徒さんのレッスンで、です。小学4年生の女の子。エリーゼのためにを弾き深めています。
通して聴かせてもらいました。

美しかった。

さて…。私がレッスンして形を変えていくことは良いことなのだろうか…。

テクニック的に弾きにくいならば

弾きにくいならば弾き方を丁寧に伝えます。しかし今では明らかに彼女自身の音になってきています。それが深まってきている演奏です。

さて…。私がレッスンして形を変えていくことは良いことなのだろうか…。

その瞬間、すぐにあるビジョンが見えました。


小さな子供がお母さんによろこんでほしくて、シンプルなスポンジケーキを焼きました。がんばって焼きました。
そして小さな手のひらいっぱい広げた上に乗せて渡しました。

おかあさんは たいそう よろこびました。


お母さんは知恵が湧きました。更に素敵にしよう!と。
そのスポンジケーキに さらに生クリームや苺や葡萄などで華やかにデコレーションしました。

そして、出来上がった豪華なデコレーションケーキを見せながらまわりのお友達や知り合いに言いました。

「私の娘が作ったケーキです。素晴らしいでしょう、」と。

悲しいこと。いくら見栄えよくなったとしても、本人の立ち位置を引き上げ、味あわせてあげられないのは悲しいこと。

土足で入らない

その子が素直に受け取って、音をよろこんで弾く以上に素晴らしいことはない、と。

ともに分かち合って感動しながら変化していくならば、その子のよろこびです。素晴らしいことです。

そこにあえて「その子と音との関係」に分け入り、まったく弾き方を変えてしまうのは「音楽の願い」ではないのでしょうか。

25年前、音大を卒業してすぐから教えている生徒さん

彼女は結婚し、先週月曜日に女の子を出産しました。

東京に住んでいますから、月に1度とはいえ、続けてレッスンを楽しみに来てくれたことに本当に嬉しく、よろこびで、前回のブログでも触れましたがレッスン後、共に食卓を囲みました。

その時に彼女が語った言葉にわたしは真理を知らされた気がしたのです。
「私は小さい頃から器用に何かが目立って出来る、というタイプではありませんでした。でも、母から「こうしなさい、」や「もう少しこうしたら」などと言われたことがなくて、母はいつも微笑んでいました。少し大きくなったころ「もう少ししたら」ではなく、「こうできたらこんないいことしようか!?」とさり気なく出来た後に嬉しいことが待っている、という提案をしてくれました。
いつもしたいことには応援してくれました。
だから、今の私があるのかな、と思います。

天国のお母さま

高2の晩冬にお母さまは天国に帰られました。彼女は成績はかなりよく、眩しい学歴と職場に身を置いています。器用ではなかったなんて驚きました。
思い返してみると、彼女からは「等身大の自分をよろこぶ」姿がいつだって見られたことに気付きました。その源を彼女のお母さまを懐かしむ話から見せて頂いた、と思いました。

ひとりひとりには、その子にしかない「いのちの音色…輝きがある。」

ただ習うから弾く…弾かなくてはならない…だなんて…そんなことはあってはなりません。

ひとりひとりの「いのち」が「ピアノを弾くことで よろこぶ」

ここに響きあっていく先生でありたい、と深く思うのです。