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真に支えられた「自由」


新しいスタイルは 衝突があって産み出されることも多い。

だから、衝突や困難も逆を返せば 恵みなのだ。

しかし、なぜ衝突が起きたり困難があったりするのか。

また、それがなぜ恵みになるのか。




初夏より  早朝に起き ウォーキングとエクササイズを続ける日々のなかで …  また しずかにピアノに向かう中で気づきが深められたことをシェアしたいと思う。


衝突や困難の意味。それは
ひとつ」であるところに 戻るためだと わたしは感じている。

さて
何とひとつなのか。




それは
誕生のはじまりからの「愛」。



産まれたての赤ちゃんは、愛のかたまりだ。そして 父母やまわりの愛に包まれて育っていく。
その過程のなかで、より人として立派に生きる為に、善悪、優劣、寒暖、急緩、などの二元を知らされ、選択していく。

これはいい、これは悪い。

そのこと自体は 「人の本質」から生まれる 美しさを求める価値感である場合が多い。

ところが それに従うことが基準値となる場合、内発的な願いではない時や、準備が整っていない場合、違和感を感じ始める。

果たしてその価値観は真実だろうか。



このことに 思春期にさしかかる子供は無意識に疑問を覚えるのではないか。

また  おとなは その疑問を持つ時間とエネルギーは効率が良くない。横に置いて、生産的なことを選んでいこう、放ってしまうのではないだろうか。



ところがその葛藤はなくならない。無意識の領域でいつも揺るがす不安の要素となり、はじめの「愛」からの分離は埋まっていかない。


もちろん、色んな価値観を知り、学び、体験することにより、多様性を知り、可能性を知り、選択実行しながら豊かになっていけるのだから決して 必要不可なことではないだろう。


でも、知っていたい。

善悪や優劣は 「ひと」の歴史が生み出してきたもので、真実であるかは  断定できないということを。


だから 習慣にしたい。



自分のなかで ジャッジ(判断)をしていることに気づいたら、そのジャッジを 客観的に見るゆとりを持つことを。そして それは 「愛」からきているか、それとも 歴史や世の中や、また自分の恐れからくる価値観なのか、を見る ゆとりを持つことを。

その判断が分離をもたらすものと気づいたならば、今まで持っていた その判断を 手のひらに乗せ、慈しみ 感謝を伝え  抱きしめて そっと 大空に手放すのだ。


その「判断」をも否定したり 蹴っ飛ばしたりせず、今までの自分を支えてきてくれた一部だったことに感謝し 優しさをおくる。

その上で手放し、はじめの「愛」に委ねて いくのだ。



学校に通うこどもたちも、社会で働くおとなの方々も、また 家庭を守る方々も、みなみな、それらの肩書きを外せば
ひとりの「ひと」なのだ。

その「ひとり」が 与えられたいのちをいっぱいに輝かせることが、「はじめの愛」の願いなのではないだろうか。

その「ひとり」がはじめの愛にかえり続けながら与えられた役割に その「はじめの愛との一致」とともに いきるとき、おのずと自由や平和を すべてのすべてと響きあいながら生きることになるのではないか、と思う。

そして それは、まったき甘美であり、まったき平安であることに気づき始めている。

そのことを 音の世界は わたしに知らせてくれているように感じている。

さいたま市緑区  /  浦和区ピアノ教室
まえだやえこ