弾いていると
どんどん 身体が、
楽譜が、
楽器が、
空間が、教えてくれるのです。
毎日毎日
ピアノに向き合ってきた時間は、
孤独だと見られていないか、
なんて 若い時は思ったけれど、
今、
そのときどきの自分に
こころから感謝している。
けして
ひとに見せられるような楽譜じゃない。
ボロボロで、くちゃくちゃだから。
でも
それも わたしの大切な一部。
本当の製本された楽譜は
書き込むと音符が見えなくなるので、
大抵の曲は
コピーする。
弾いては手を休め
目を閉じて想像し、
指揮をしてみたり、
さまざまな画集を取り出してきて
その曲から連想された情景を
探そうとしたり、
また、
文学作品の言葉を思い出しては
どこにその言葉があったか
探しまわり、
見つければ書きこんだり、
また、
気づきや励ましなど、
自分のなかに湧いてきた言葉を
綴ったり、
こうやって
来る日も来る日も
曲に向き合ってきた歴史は
ほかの何にも変えられない
宝となった。
真夏のように暑かった秋の1日。
暑過ぎても
寒くっても
身体が疲れていても
エネルギーに満ちていても
どんなときも
美しいものなのだろう、
と知ってきた。
塩気のない料理は
美味とは言えない。
張りのない傘は
水を跳ねてはくれない。
同じように
緊張という張りも、
また、
うまくいかないという塩っぱい感覚も
きっと必要なのだろうと思う。
そしてそれは
かならず
益にかわる。
なぜなら、
その
自分にとって
気持ちの良いとは言えない
感覚や感情にも
かならず
寄り添いと励ましがあり、
そのぬくもりによって
その只中であっても
やさしさに満ちるこころへ
かえられていくから。
美しいものだけが美しいのではなく、
たとえ目には見えなくても
すべてのなかに美しさを
見出していけることほどの
よろこびはない。
その体験を
様々な曲のなかで
日々、もらってきたように思う。
曲は
愛そのものだ。
あらゆる感情や
どんな状態にも
そのまま
寄り添い、
共感してくれる…
理解してくれている
響きが
旋律がある。
テニスをこよなく愛する🎾主人は
休みの日の数時間、
テニスに出かけていく。
出かけると
待ってました!とばかりに
わたしはピアノに座る。
おなかぺこぺこになった頃、
帰るよコールがかかってくる。
わたしは
料理の最終仕上げのために
キッチンに立つ。
そして
お互いがお互いに満たされて
食事をともに楽しむひととき。
たいがい
お昼をたっぷり頂けば、
夜は軽い野菜料理と豆腐などでよい。
こんな風に
食事と食事を挟みながら
和やかに過ぎて行く休日は
主人にとっても
わたしにとっても
こころ安らぎ
身体もくつろぐ めぐみの時。
傍で
クッキー色の方が
ひなたぼっこをする。
日常には
充ち満ちるよろこびがある。
こんな日常がここちよい。
ありふれた日常が
こころから美しいと思うのだ。
昨日の空は
どこまでも澄み渡り
つかみたくても つかめないほど
高くて広かった。
秋の空は
なんて果てしない 大きさなのだろう。
音楽の世界のようだ。
広くて
高くて
深くて
長くて
知っても知っても
感じても感じても
すべてを知ることができず
すべてを感じ尽くすことはできない。
だから
弾き続けていきたい。
かならず日々、
1ミリ単位で
新しい気づきがあるから。
毎朝思うこと。
空に還してしまいたい、
と。
得たと感じたことも、
また、
いろんな想いも、計画も。
すべてを還して、
空っぽにして
まったくゼロからはじめたい。
日毎の恵みを
新しく受けとるために。